第4部 ふかめる 4.6

日本のカレー・スパイス史

インド→英国カレー粉→日本ルウ→国民食、そしてスパイスへの回帰。

日本のカレー・スパイス史

「日本のカレー」と「インドのカレー」は、別の料理だと言われます。でもどこで枝分かれしたのか——答えは、カレーがインドから直接来たのではなく、イギリスを経由してやってきたから。この一本の道筋を知ると、とろみのある日本のカレーライスも、近年のスパイスカレーも、全部つながって見えてきます。

日本のカレーは「インドから」ではなく「イギリスから」来た

まず押さえておきたい大原則があります。日本のカレーライスのルーツは、インドではなくイギリスです。

カレーが日本に最初にやってきたのは、明治になるか江戸末期ぐらい。そのとき入ってきたのは、インドの家庭のカレーではなく、イギリスが作った「カレーパウダー」を使った、小麦粉でとろみをつけたカレーでした。イギリスがインドで見て、食べたスパイスを混ぜ合わせて作ったのがカレーパウダー。それを軸にしたカレーが、海を渡って日本に届いたのです。

「カレーパウダーを作ったイギリスから日本に伝わった。西インドからイギリス、そして日本を旅をしていく——そういう道筋なんです。」 — メタ・バラッツ

だから日本のカレーには、本場インドにはない「小麦粉のとろみ」があります。これはイギリスのサンデーロースト(日曜の焼き肉料理)の残り物を、ソースでまとめて食べる流儀から来たという見方もあります。インド料理がイギリスで一度「洋食」に翻訳され、その翻訳版が日本に来た。だから日本のカレーは、はじめから「洋食」だったのです。

「カレー」という名前そのものが旅をしてきた

そもそも「カレー」という呼び名も、伝言ゲームのように変わってきた可能性があります。西インドにはカディという料理があり、これを聞いたイギリス人が「カレー」と聞き取ったのではないか——という説があります。料理だけでなく、名前まで人から人へ渡るうちに少しずつ姿を変えた。カレーは、伝わる過程そのものが歴史になっている料理なのです。

最初のカレーは「長ねぎ」と「カエル」だった

伝来した直後の日本のカレーは、今とはずいぶん違う姿をしていました。明治初期のレシピには、長ねぎカエルを使うものがあったと伝わります。

これは食材の事情によるものです。いまカレーに欠かせない玉ねぎが日本に伝わったのは、江戸時代の終わりごろか明治。つまりカレーが来た時期とほぼ同じで、まだ広く出回っていませんでした。だから手に入りやすい長ねぎで代用した——カレーが日本の食材にあわせて作り替えられていく、いちばん最初の一歩がここにあります。

外から来た料理が、その土地の材料で「翻訳」される。日本のカレーの歴史は、最初からこの繰り返しでできています。

海軍が「国民食」への扉を開いた

イギリス渡りのカレーを日本中に広げた大きな力が、海軍でした。

イギリス海軍にならって、日本の海軍がカレーを採用します。船の上でも作りやすく、栄養もとれて、大人数にふるまえる。カレー粉と小麦粉さえあれば成立するこの料理は、軍隊食として理にかなっていました。海軍で覚えた味が、除隊した男たちとともに各家庭へ持ち帰られ、やがて洋食店のメニューになり、家庭の食卓に定着していった——これが日本のカレーが「国民食」になっていく大きな流れです。

カレー伝来から、すでに200年近く。その間に、カレーは外来の珍しい料理から、誰の家にもある当たり前の一皿へと姿を変えました。

復興のなかで生まれた「カレーパン」

普及の途中では、日本独自の派生も生まれます。カレーパンは、関東大震災後の復興期に、洋食とパンを組み合わせた新しいメニューとして考案されたと伝わります。カレーという「洋食」が、パンというもう一つの「洋もの」と出会って、まったく新しい日本の食べ物になった。借りてきたものどうしを掛け合わせて自分のものにする——日本らしい受容のしかたが、ここにもよく表れています。

アナンと「カレーブック」——体験を知識に変える

日本のスパイス史を語るうえで、アナン自身の歩みも一つの証言です。

いまから約50年前、アナンはインドのカレー粉を輸入し、日本で販売を始めました。スーパーの店頭では、試食販売員がカレー粉を手に、お客さんに語りかけながら売っていく——スパイスがまだ「珍しいもの」だった時代の、地道な普及の風景です。

そして1983年、アナンは『カレーブック』を発売します。これは、インド人が考えた「日本の家庭で作れるカレー」を一冊にまとめたもの。レシピを通して、のべ20万人ともいわれる人たちがスパイスでカレーを作る体験をしました。

「『カレーブック』がしたのは、ただ作り方を配ることではありません。一人ひとりの台所での”体験”を、誰でも使える”知識”に変えていくことでした。」 — メタ・バラッツ

外から来た料理を、自分の手で作って、自分の言葉で語れるようになる。輸入から出版へ、商品から知識へ。アナンのこの歩み自体が、日本がスパイスを受け入れてきた歴史の縮図になっています。

70〜80年代——「インド料理」がやってくる

イギリス経由の「カレーライス」がすっかり国民食になった一方で、戦後しばらく経った70〜80年代には、また別の波が来ます。今度は「洋食のカレー」ではなく、インド料理そのものとしての伝来です。

1970年の大阪万博なども一つの契機となって、この時期に北インド料理が日本へ広まっていきました。タンドール窯で焼くナンや、クリーミーなバターチキンといった、本格的なインド料理が紹介されたのもこの頃です。

ここで日本のカレー史は二層構造になります。下の層に、明治以来の「とろみのある国民食カレー」。その上に、70〜80年代に来た「レストランのインド料理」。同じ「カレー」という言葉でくくられながら、実は違うルートから来た二つの文化が、日本の中で重なって存在するようになったのです。

大阪のスパイスカレー、札幌のスープカレー

さらに時代が下ると、日本各地で独自のカレーが生まれます。輸入された文化が、その土地で発酵して新しい料理になる段階です。

大阪のスパイスカレーは、小麦粉のとろみに頼らず、スパイスそのもので仕立てる新しい潮流。そこに出汁(だし)を使うなど、和の感覚を取り込んだ作り手も現れました。インドのカレーに、日本の出汁文化を掛け合わせる——インド料理に「カスーリメティを振りかける」ような自由さと、和の土台が同居する独特のスタイルです。

札幌のスープカレーも、土地が生んだ一皿です。これはもともと薬膳カレーを前身として定着したと伝わります。そのルーツにはスリランカカレーの影響もあるとされ、札幌のスリランカ料理店が持っていた鰹節で出汁をとる文化が、スープ状のカレーが根づくのを後押しした、という見方があります。

「スープカレーは、どうやら北海道からやってきた。薬膳カレーが前身で、そこにスリランカの出汁の感覚が重なっていったんですね。」 — メタ・バラッツ

スリランカでは鰹節で出汁をとる独特の作り方があり、それが鰹だし文化を持つ日本と自然に響き合った。外来と土着が出会って、どちらでもない第三の料理が生まれる——大阪と札幌の例は、日本のカレー史がいまも続いていることを教えてくれます。

(インドのカレーに鰹だしのような旨味をどう重ねるかは → 旨味とスパイス で技法として扱います)

スパイスは、もっと古くから日本にいた

ここまではカレーの話ですが、視野を広げると、個々のスパイス自体はカレーよりずっと前から日本にありました。

  • シナモン(肉桂)は古くから「肉桂(にっき)」と呼ばれ、八つ橋などの和菓子に使われてきました。
  • クローブ(丁子)は、はるか昔に渡来し、正倉院に納められたと伝わります。
  • ターメリックは、沢庵(大根漬け)を黄色く染める着色料として、暮らしの中で使われてきました。

スパイスは「カレーのための新しい外来品」ではなく、薬や香り、染料として、日本の生活にとっくに入り込んでいた。カレーという料理は、その長い付き合いの上に、明治以降あらためて重なってきたものだと考えると、日本とスパイスの関係はぐっと奥行きを増します。

一年に一度、みんなで同じカレーを食べる日

最後に、日本のカレーがどれほど「国民食」になったかを示す象徴を一つ。1月22日はカレーの日です。これは、全国の学校給食で一斉にカレーが出されたことに由来すると伝わります。

外国から来た料理が、給食という「みんなの食卓」を通じて、世代を越えて共有される味になった。日本のカレー史は、輸入から、普及、そして共有へ——人から人へ手渡されてきた物語そのものなのです。

まとめ

  • 日本のカレーはインドから直接ではなく、イギリス経由で伝来。小麦粉のとろみは「洋食」としての出自を表している。
  • 「カレー」の名は、西インドのカディの聞き間違いから生まれたという説がある。
  • 最初期のカレーは、玉ねぎがまだ普及しておらず長ねぎ・カエルで作られた。土地の材料への「翻訳」が出発点。
  • 海軍が普及の扉を開き、男たちが家庭へ味を持ち帰って国民食化。カレーパンは震災後の復興期の派生。
  • アナンは約50年前にカレー粉を輸入、1983年『カレーブック』で体験を知識に変えた。
  • 70〜80年代に大阪万博などを契機として、洋食とは別ルートで北インド料理が伝来。
  • 大阪のスパイスカレー(出汁使い)、札幌のスープカレー(薬膳・スリランカ+鰹だし)など、土地が独自のカレーを生んだ。
  • シナモン・クローブ・ターメリックなど、個々のスパイスはカレー以前から薬・染料として日本にあった。

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