第4部 ふかめる 4.22
北インドの食と北西の玄関口
ギーと乳製品、小麦、タンドール窯。日本でなじみ深いインドカレーの多くは北系。

「北インド料理」と聞いて思い浮かぶバターチキンやタンドリーチキン、ナン——日本で「インド料理」の代表とされてきたものの多くは、じつは北インドの食です。なぜこの地域が代表格になったのか。答えは地理にあります。北西インドは、ユーラシア大陸からインドへ人と文化が入ってくる唯一の陸の玄関口だった。ここでは、その地理から北インドの食を読み解きます。
なぜ北インドが「インド料理の顔」になったのか
インドは三方を海に囲まれ、北はヒマラヤという巨大な壁にふさがれています。大陸から陸路でインドに入ろうとすると、通れる場所はごく限られる。その数少ない通り道が、北西インド——いまのパンジャーブやデリーへ抜けるルートでした。
だからこの地域は、何千年ものあいだ文化の交差点であり続けました。ペルシャ、中央アジア、シルクロードを通じて、人も、宗教も、食材も、調理法も、まずここから入ってくる。北西インドは「インドの玄関口」だったのです。
玄関口であることは、食にそのまま刻まれています。たとえば北インドで使われるヨーグルトは、インドでは5000年も前から使われてきた古い食材ですが、これを料理の旨味・とろみ・酸味として多役に使いこなすのは、おもに北と西インドの特徴です。牛乳をあえてヨーグルトに加工し、その酸味を料理に生かす——そうした発想も北インドらしさのひとつ。コルマのようなムガル由来の宮廷料理も、まずこの玄関口を通って入ってきたペルシャの食文化が、インドで発展したものです。
「すごく文化の交差点だったんですよね。」——メタ・バラッツ
小麦の文化圏 — チャパティとダールの食卓
北インドの食を一語でまとめるなら「小麦」です。気候的に小麦がよく取れる土地で、主食はご飯ではなくチャパティ(全粒粉を薄く焼いたパン)。バラッツは、北インドの食卓を「日本でいうご飯と味噌汁」にたとえます。チャパティとダール(豆の煮込み)が、毎日の基本のかたちなのです。
この小麦食は最近のものではありません。小麦そのものは8000年も前からこの地域にありましたが、昔はアワやヒエといった雑穀が混じっていて、いまのような100%小麦のチャパティになるまでには長い変遷がありました。
そして北インド料理を語るうえで、ご飯ではなくパンで食べるという点はとても大切です。コルマやバターチキンのような濃厚なグレイビーは、ナンやパラタといった小麦のパンですくって食べることを前提に味が組み立てられている。汁気の濃さも、味の濃さも、「パンで食べる」ことと切り離せません。
玉ねぎ発祥の地 — 素揚げという基本
北インドは玉ねぎの発祥の地ともいわれます。そのためか、北インド料理では玉ねぎの扱いがとびきり重い。あるシェフへの調査では、カレー作りにおける玉ねぎの重要度は北インドで9割、南インドで5割というほど差が出たそうです。
北インドの調理で基本中の基本とされるのが、玉ねぎの素揚げ。老舗の北インド料理店では、新人がまず玉ねぎを揚げる練習をするほど、欠かせない技術です。
なぜ素揚げなのか。ここで効いてくるのが、もうひとつの地理的事情——保存です。
「冷蔵庫がない」前提が料理をつくった
現代のレシピは冷蔵庫がある前提で書かれていますが、インドの伝統料理はそうではありません。
「基本的に冷蔵保存ができないから、冷蔵保存できない考えの下でレシピって結構作られている。」——メタ・バラッツ
冷蔵できないなら、傷みにくくする工夫が要ります。玉ねぎを油でしっかり揚げる、肉をヨーグルトとスパイスでマリネする——これらは味のためだけでなく、保存性を高めるための知恵でもありました。北インド料理の「重さ」、たっぷりの油やスパイスの濃さも、この保存前提から理解できます。デリーの食が「スパイスも油も深くて重い」と表現されるのは、こうした背景があるのです。
北西の郷土カレー — ラジャスタンのラール・マース
玄関口の地理は、辺境ならではの郷土料理も生みました。北西の砂漠が広がる州・ラジャスタンを代表するのが、ラール・マースです。「ラール=赤」「マース=肉」、その名のとおり赤くて辛い肉料理で、遊牧民や狩猟の文化を背景に生まれました。
バラッツが伝えるラール・マース誕生の逸話は、この料理の本質をよく示しています。狩りで仕留めたジビエ(獣肉)には独特の臭みがある。それを消すために強い辛味を使い、そこへ甘味を合わせていった。
「辛味、臭みを消す、甘味というのが合体して出来上がった。」——メタ・バラッツ
辛味で臭みを抑え、甘味で角を取る。土地の食材(クセのある肉)と、土地の事情(保存・狩猟)が、味の設計そのものを決めている——郷土カレーとは、そういうものだという好例です。
レシピが「開かれた」土地 — パンジャーブと共同窯
北インドの食を世界に押し上げたのが、パンジャーブ地方の文化です。鍵になるのがサンジャ・チュルハと呼ばれる「共同窯」の精神。井戸のように、地域のみんなで使える窯を作り、そこで一緒に料理をする考え方です。
共同窯では、各家庭で眠っていたレシピや作り方が自然とオープンになります。隣の家のやり方を見て、互いに刺激し合う。そうして家庭料理が磨かれ、洗練されていった。バラッツは、いま世界で食べられているインド料理の多くがパンジャーブを起源とする、という見方を紹介しています。レシピが「閉じて」いれば一家の味で終わったものが、「開かれた」ことで地域全体の料理へ、やがて世界の料理へと育っていったのです。
この共同・開放の精神は、聖地アムリットサルのゴールデンテンプル(シーク教の総本山)にも息づいています。ここでは訪れる人すべてに食事をふるまう施食が、500年も前から毎日続けられている。来る人全員が食べられる量を、毎日作り続けているのです。
1947年・分離独立とデリーの食
北インド料理が「インド料理の代表」として確立した、もうひとつの転機が近代史にあります。1947年、インドはイギリスから独立しました。このとき同時に、インドとパキスタンが分離します。
分離独立にともなって、カラチなどから多くのシーク教徒らがデリーへ移動してきました。彼らが持ち込んだパンジャーブの食文化が、新しい首都デリーで花開く。デリーはもともと17世紀にムガル帝国が築いた都で、チャンドニー・チョークのような古い街には食の蓄積がありました。そこへ移民の食が重なり、いまも料理が生まれ続ける街になったのです。さらに70〜80年代には、この北インドの宮廷由来の料理が「インド料理」の代表として日本にも広まっていきました。
まとめ
- 北インドが「インド料理の顔」になったのは、北西が大陸への唯一の陸の玄関口で、ペルシャ・中央アジアの人・食材・調理法がここから流入し続けたから。
- 主食は小麦=チャパティとダール。コルマやバターチキンは、ご飯ではなくナン・パラタですくう前提で味が設計されている。
- 北インドは玉ねぎ発祥の地で、素揚げが基本技術。背景には冷蔵保存ができない前提の保存の知恵がある。
- ラジャスタンのラール・マースは「辛味で臭みを消し、甘味を合わせる」郷土の論理を体現する。
- パンジャーブの共同窯(サンジャ・チュルハ)でレシピが開かれて料理が洗練され、1947年の分離独立でデリーに集約された。

